当山の歴史
豊川稲荷は正式名を「妙嚴寺」と称し、山号を圓福山とする曹洞宗の寺院です。
一般的に「稲荷」と呼ばれる場合は、「狐を祀った神社」を想像される方が多数であると思われますが、当寺でお祀りしておりますのは鎮守・豐川吒枳尼眞天(とよかわだきにしんてん)です。豐川吒枳尼眞天が稲穂を荷い、白い狐に跨っておられることから、いつしか「豊川稲荷」が通称として広まり、現在に至っております。
寒巌義尹禅師略伝
圓福山妙嚴寺の歴史は寒巌義尹(かんがんぎいん)禅師を抜きにして語ることは出来ません。
寒巌禅師は第八十四代順徳天皇の第三皇子として京都の北山にお生まれになりました。
出家得度当時は天台の教学を学ばれておりましたが、後に越前の日本達磨宗にて禅に参じ、さらに文暦元年(西暦1234)の頃、宗風一世を風靡していた日本曹洞宗祖道元禅師を宇治の興聖寺に尋ね、親しく膝元に参ずることおよそ十年、御年二十六歳の時道元禅師の法をお嗣ぎになりました。
寛元元年(1243)「時世を救う」の大願心を発して当時宋代の中国へ渡り諸山の名刹を行脚、諸名徳に歴参して仏法の深義を究められました。建長六年(1254)に帰国された折りには師道元禅師はすでになく、永平寺は二世・孤雲懐弉禅師の代になって居りました。その後寒巖禅師は宇治・興聖寺にて道元禅師の語録を編纂集成されました。
弘長三年(1263)語録を携えて再び入宋、諸山を尋ね道元禅師語録の跋文を受けられ、文永四年(1267)に帰国、筑前博多の聖福寺に身を寄せられました。
その後は宇土郷に三日山如来寺を創建、つづいて飯聚寺を開いて大悲像を安置、建治二年には熊本は釈迦堂村に青堤山極楽寺を開き、同年五月、自ら筆をとって 幹縁文を草し、四方に勧進して浄財をつのり、白河・綠川の難所に大渡橋を約一年半を費やして架設、弘安六年その大渡橋畔に大梁山大慈寺を創建、また弘安七 年には飽託郡の海辺に約200ヘクタールもの農地を干拓、開墾される等、「時世を救う」の大願は一つずつ成就し、その数重なる衆生済度の実績は九州一円は 言うに及ばず、遠く鎌倉の将軍の元へ、また天皇の在す京都にも伝わるものでした。
永仁七年(1299)八十三歳にして大慈寺をお弟子に譲り、正安二年(1300)八月二十一日、八十四歳の天寿を全うして御入滅せられました。寒巌禅師のお墓は大慈寺、如来寺及び浜松普済寺にあります。
豐川吒枳尼眞天の由来
寒巌禅師は七百余年前の交通不便の時代にもかかわらず、「時世を救う」の大信念を貫いて二度までも宋国(中国)へ渡られました。その二度目の入宋よりの御帰朝に際し、いよいよ船に乗って海上に出られた時、たちまち霊神が空中に姿を現されました。
見目麗しきその霊神は稲束を荷い、手に宝珠を捧げ、白狐に跨って声高らかに真言を唱えながら現れます。
この出来事に深く感激された寒巌禅師は帰国後自ら霊神の形像を刻まれ、護法の善神としてお祀りになり、常にお弟子に彼の真言を唱念し、御祈祷するように訓えられました。
その後六代目のお弟子・東海義易禅師がここ豊川の地に妙嚴寺御開創の折、御本尊に寒巌禅師伝来の千手観世音菩薩を安置し、寒巌禅師御自作の豐川吒枳尼眞天像を山門の鎮守としてお祀りになりました。嘉吉元年(1441)旧暦十一月二十二日のことです。その霊験は顕著で、今川義元公、織田信長公、豊臣秀吉公、徳川家康公等歴代著名人をはじめ広く一般信者の帰依信仰を集めて参りました。
時は明治に至って神仏分離が発令され、廃仏毀釈の暴勢に乗じて一時は当山もその厄に遇うこと必至と思われましたが、幸い第二十八世霊龍禅師およびそのお弟子第二十九世黙童禅師の善処によって寒巌禅師の勝躅を護持し、豐川吒枳尼眞天の霊験をいよいよ顕彰せられましたことは特筆すべきことです。
以後は「尊天様」の愛称で親しまれ、その信仰は日本国内はもとより遠く海外からも大勢の参拝祈願者を迎え、現在に至っています。
また、明治時代には有栖川宮家より『豐川閣』の大額が下賜されて以来、当山は『豐川閣(とよかわかく)』という呼称でも広く知られることとなりました。
平八郎稲荷の伝説
豐川吒枳尼眞天を豊川稲荷と称する因縁は冒頭でご説明した通りです。
「いなり」とは「イナノリ」の音便で、ノリは実登の義で、豊年を意味して稲荷と書くわけです。
また、豐川吒枳尼眞天は世に「平八郎稲荷」とも称せられています。以下にその理由を御紹介しましょう。
東海義易禅師が妙嚴寺開創の時、一人の老翁があらわれ、「お手伝いをいたします」と禅師の左右に侍してよく働き、自ら平八郎と称していました。
老翁は一つの小さな釜を持っているだけで、ある時は飯を炊き、ある時は菜を煮、又ある時は湯茶を沸かし、しかも幾十人幾百人を展待するのにもこの不思議な釜一つで間に合いましたので、その神通に驚かないものはありませんでした。
そこである人が一体どのような術を使っているのかと尋ねると、平八郎はにっこりと笑って
「私には三百一の眷属がありますので、どんな事でも出来ないということはありません。又どんな願いも叶うのです。」と申しました。
この不思議な老翁は、開山禅師が遷化されてから忽然と姿を消してしまいましたが、あとには翁が使っていた釜だけが残されていました。この因縁により世に平八郎稲荷と称えられるようになりました。
この平八郎稲荷と三百一の眷属に対しては、年二度の大祭の時、儀式中に眷属供養の厳粛な秘法加行を伝承的に執行しております。